愛すべき世界に  小山ゆうこ展「平凡ファンタジィ」京都編 終わりによせて

最後の朝。一度行ってみたいと思っていた一乗寺の「恵分社」へ。なるほどぉ、素敵なお店だ。夏にお世話になった、銀座月光荘のグッズのコーナーが設けてあった。ディスプレイがきれい。絵本もたくさん。気になるコーナーをぐるっと見ていたら、欲しかったのに手に入らなかった「花形装飾の博物誌」が、なんとここにあるじゃないか!どうやら新たに発行されたばかりのようだ。知らなかった。ここで出会えるなんて!と即購入。ほかにもいろいろ、インスピレーションがわいてくるお店でした。さて最終日。この日もつぶやきを見て、お忙しい中、来て下さる方があったりして、恐縮しつつも有り難かった。日曜日だけどわりと静かで、夕方にはぼちぼち発送の作業などをしつつ、終わってしまうと思うとちょっとさみしい気がした。日も暮れて、汗をかきつつ搬出作業を終え、東京へ帰らなければならない。最終の新幹線に乗り、気持ちが何もまとまらないまま過ごし、ああそうだ上着を脱がなくちゃ、と思ったら、もう品川あたりまできていて、あっという間に東京に着いてしまった。

わたしは、普段はフツーに日々を暮らしている、フツーの人間だ。
平凡な暮らしをしつつ、持ち続けたい自分自身のあり方がある。
平凡であるからこそ、ありもしない妄想や、ファンタジィが、
わたしには、必要なのだった。

「平凡ファンタジィ」は、非凡な一週間で幕を閉じました。
ありがとう京都。ありがとうみなさん。
夏から続いた「平凡ファンタジィ」は、これにておしまい。

むくむくむく
帰ってそうそう、またいつか、ぜったい京都に行きたいぞと思った
最後の日のおわり。
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2年前に京都で個展をやろうと心に決めて、
日本橋のコーヒー屋でアルバイトもした。
わたしの身勝手に、理解と協力をくれた家族や周りの助けがあって、
実現できたことでもある。

そして、ツイッターのDMでいろいろ教えて下さった
画家の瓜南直子さんに感謝。
未熟なわたしを、心にかけてくださったこと、
そして出会いをありがとうございました。
おかげさまで1冊持っていったガイドブックは、
ほとんど開く事がなかったし、ひとりの夜もさみしくありませんでした!

今年は、今までにないくらい発表続きの一年だったけど、
それによって、自分のスタンス、願い、課題が少しずつ見えてきた。
この体験はきっと糧になるだろう。

この先も、やり続けなければならない。
どうして誰に頼まれもしないのに、いつもそう思っているんだろう。
人を啓蒙したいとか、驚かせたいとかいうんじゃなく、ただひたすら、
自分が生きている、ということを、知りたいがためにやっているようなものだ。
これで死んでもいいと思うほど、その都度、精一杯でありたい。
怠ける事もあるけれど、夢は捨てないで生きていたいのだ。

いくつになっても、結論が見えなくても、
死ぬまで生きていることを、実感しながら生きていきたいのだ。
平凡だっていい、先が見えなくたっていい、
明かりは、少しづつ見えてくる。
そうやって、今回も少し見えたんだ。
少しでもいいから、見えた一筋の明かりを手がかりにして、
これからも、描き、そして 生きていくよ。

情報化社会とかネット社会とか、いろいろ言われ方はあるけれども、
その先には、必ず人間がいる。
何で繋がっていたとしても、
その先にいるのは、いつも生身の人間なのだ。
そして、わたしは、人間が好きだ。

見るもの知るもの、すべてが、愛おしくて、たまらない。
愛すべき世界に、感謝を込めて。

2回目が大事

少しゆっくりな朝。きのう仏師殿からご案内を頂いたので、ちょうどこの日が初日の「宗教美術展」へ。会場に入ったとたんに木の香りがして、なんだかそのオーラ漂う空気感に、始終、ぞわぞわーっとしてしまった。初日ということで盛況。みな食い入るように熱心に、そして静かに仏像を見ている。千手観音さまにしばし釘付け。木そのものに宿るエネルギー、手の中のひとつひとつ、穏やかなお顔、頭の上の更なるお顔、台座の蓮の花には色。目新しさや斬新さとは正反対の世界。お教室の生徒さんらしき作品から、お師匠さんの作品まで、ずらりと見応えがあった。卓越したものほど、作者の自我のようなものが見えなくなっている。仏さまなんだし、作る人のエゴが見えちゃダメなんだろうな。まさに職人技。これを作るのは「祈り」なのであって、出来上がったものは「救い」として、存在するのだな、と感じた。このぞわぞわ感は、そういうものなのだろうと思った。たいへん美しいものを見せて頂いた。
そしてギャラリーへ。土曜日ということで、この日も、ツイッターを見て来て下さった方がいた。あとでわかって、ごあいさつできなかった方々ごめんなさい。そして、着物の絵付けをされている、あるお方は、武蔵美の先輩であるという。京都というところは、街なかで「先生!」と呼べば10人が振り向くような場所、憧れて京都に移り住んで40年になるが、本当の京都を知ったら大変ですよ。2回目が大事なんです。また来て下さいね。と言われ、身の引き締まる思いがした。夜は、ギャラリーのオーナーのおすすめのお店で、さらっとひとりご飯。またコンビニでカラーコピーして宿へ。明日で終わりということで、早めに宿へ帰ったために、電話したりツイッターしたりメールしたり、会った人たちの顔が、ふぁーっと浮かんで来たり。もう、みんなみんな、優しいじゃないか!なんだか、泣けてきてしょうがなかった。
うるうるうる。
京都すきだな、来て良かった! と思ったら、すでに最後の夜だったという
5日目の終わり。

たったひとつの世界

1日が2日分という毎日。ちょうど京都で開催中のアートイベント「観◎光」を観に、まずは二条城へ。こういうところで展覧会なんてすごいなぁ。うつわも作品も、すべてスケールが大きい。まさにビックプロジェクト。ひとつひとつというよりも、全体で観なくちゃいけないんだろうな。こういうのをアートというのでしょう。アートというものの定義はわからないよ。自分には主観しかない。体重計のオブジェには全部乗った。体験型に弱いタイプです、はい。そして泉涌寺へ。泉涌寺は普段は公開されていないそうなので、貴重な体験ができた。こういう所での展示は、見る人に何か問いかけているような気がしたし、個人的に考えさせられるものがあった。時間ぎりぎりでギャラリーへ。きのうに続いて、ツイッターでの告知を見たという方が、来て下さった。今年はこういう不思議な出会いの年。DMハガキは知り合いや芳名帳のリストの人にしか出せないけど、このツイッターというものは、予想外に広がっていくので、その都度びっくりしてしまう。ふだんつぶやきを見てる人であれば、お会いする時もなんとなく予習済みのような感もあるけど、実際にお会いすると、バーチャルとリアルがシュン!って重なる瞬間が見えて、不思議な気分。これは以前にも感じた事だ。顔を見て話すというのは、本来は当たり前のことなんだけれど、そういう当たり前が持つ、言葉以外の情報量の多さ、五感の大切さを感じる瞬間でもある。世界の多重構造。折り重なり。だけどこれは、自分が見ている、たったひとつの世界なのだ。多重ではあるが、ひとつなのだ。重なるレイヤーのように、部分と部分が織りなされて、自分の目には、たったひとつが現れる。そこには、奥行きがある。この日「アルティオさん」は、仏師殿の元へ嫁入りが決まりました。貰い手さんとアルティオさん、どうか末永く幸せでありますように。。。夜は、カナンさんに教えてもらった、寿司乙羽でおいなりさん買ったり、ロンドン焼を買ったりしてから、またひとりになっちゃったので、てくてくハシゴしてしまった。こういう時に、人の顔を見に行けるのって、すごくいいなぁと、思ったのでありました。ほろ酔いでも、もう道がわかるよ。歩いて帰れる。
すたすたすた。
京都にもだんだん慣れて来たような気になっている
4日目の終わり。

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