ちょうど去年の5月ごろに夢の中で「現象学だよ」というお告げみたいなヴィジョンをみてから何冊か現象学についての本を読んでみたけど、どれも難解で、どうにもよくわからなかった。
西洋哲学は用語がややこしい。シュタイナーのような神秘思想家の霊的なものの見方のほうが私にはしっくりくる。
それでもなんとか現象学の入門書を読み終えて感じたのは、結局そこでも同じような事を言っているのだなということだった。
物理学と仏教がなんだか同じようなことをいっているのと一緒で、たどりつく所は、どれもみな似ているのです。
現象学は主観と客観をテーマにして、いろいろいっているのだけれども、私の分かる範囲で言えば(この私の分かる範囲で(=主観)というのが大事なのだ)人間である限り、全ては主観であって、客観世界というのは誰も確かめることはできない。
みんなが自分以外のところにあると思っている客観世界というのはそれぞれの主観の共通項であって、あらかじめ客観世界が存在しているのではない。
だから自分には関係のない、確固たる客観世界があって、そこに自分がぽつんと存在しているのではなくて、見るもの触れるもの全部が、自分という基点から広がっていて、それが世界として現れている。
なぜ現れるのかはその自分という基点が何に関心を持っているか、何に向かっているのか(志向性)に由来する。ということなのだ。
たとえば、絵を描こうと思っているからここに筆が存在しているのであり、 またもや突然、海外でグループ展をしませんか?と誘われたというのは、私の野心を満たすための物事の現れなのだろうと解釈できる。
で、関心(=志向性)を持っているからこそ、ものごとが現れ、ものごとが現れて初めて自分の関心に気付くことができるという、切っても切れない関係、それが現実と呼んでいるものなのだ。
結局、あなた次第・・・みたいなことなのだね。
その事を考えていて、あっ!と思った。
私自身、物事が起こるたびに、いつも「自分は試されている」みたいな気がしていた。やれやれ、私にどうしろと言うのですか、どうすれば正解なのですか、みたいな気持ちだった。
でも、私の外側に私を試す 何か確固たる客観的世界があるわけではなく、世界が一瞬ごとの現われであるのなら、向こうから試されるために物事が起こるのではなく、むしろ私の方から、私自身の世界とは何なのかを 試すために 物事が起こるのだ ということがわかる。
世界は意味として現れる。。。
世界はそこに、はじめからあるのではなくて、
その都度、今ここに現れてくるものなのだ。
ふと自分の身の回りを見渡したくなる。
窓の外にはどんよりと曇った空があり、黒い鳥が一羽、ゆったりと
南のほうへ飛んでいった。
スケッチショウのWiperという曲が、繰り返しかかっている。
小学校の屋上から伸びた旗は、風に吹かれて休みなく、
ひらひらと翻っている。
そろそろコーヒーでも飲もうかな。。。