きらきら

ごくたまに時々、見るもののひとつひとつが、きらきらと光り出すような瞬間がある。それに気付いてハッとなり、理由もよくわからないので、どうしてそんな風に見えるのか不思議でしょうがなくなる。今日はそんな日だった。木陰も浜辺も、人で賑わう日曜日。

濁った東京湾も房総半島を背景に、沖にヨットや大型船が浮かぶ、どこかと繋がっている海だ。カモメはひとりで向かい風のほうに飛んでいる。西に乱立する都心のビル。東にディズニーランド。ジオラマの中にいるようだけど、それはゆらめく海であり、さざめく波であり、光のかけらであった。この眩しい空気のなかに、心配な放射線がどれほど含まれているのだろうかと気になりつつも、砂に絵を描き、絶え間ない波の音を聞いているうちに、なにか漠然とした良いものの気配がやってきた。

これは何だろう。曖昧なのにはっきりと確かなもののように思えるこの気配は。。。あきらめなのか希望なのか、よくわからない。波に消される砂に、絵を描く遊びの、儚い嬉しみとともに、それはやってきた。そして視界に入るものそれぞれが息をするように、光り出すように見えてきて、少し驚いた。その感じは久しぶりだった。前は建物と空の間をぼんやり見ている時に、そうなったのを憶えている。
様々な想いが宙を漂い、その中の何かが自分に触れたり、触れずに通り過ぎていったりする。春には黄色い菜の花畑だった場所が、今はオレンジ色のコスモス畑になっている。伸びた草の上を、踏み歩いてゆくたびに、はじけた緑の匂いがする。何事もなかったかのように観覧車は回り、かき氷かソフトクリームかで悩む自分がいて、いつものように日が暮れて、いつものように夕飯のことなどを考える。いつものようである物事が、実は輝いているのだと、その急なきらきらに、知らされたような気もしたのだった。
そういえば、きのうは夕陽にまでデジャヴを見たな。遠い記憶と、なにか関係があるのだろうか。抽象的なものが形になって見えたときに、光るように見えるのだろうか。などなど。まとまりがつかないけど、書いておこうと思った。何にも切り取られていないぐるりと開けた風景に、身をさらして自分が小さくなり、眩しい夏の太陽に秋の風が吹きぬける、そんな一日でありました。

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