儚い世界に思うこと

自分が生きている時代に、こんな大震災が起きるなんて、夢にも思わなかった。2月の半ばに手術入院してよたよたと退院し、なんだか、生まれ直したような気になっていた矢先の、こんな大惨事。大きなショックと、荒波のように、次々と押し寄せる情報。「目に見える物事は意味として現れる」という、現象学的見地を信じるとしたら、今は試されている時でもあり、自らを試す時でもあるような気がしている。

多くの死と、続く放射能汚染。悲しみと、不安と、恐怖のただ中で、何に耐え、何に抵抗し、何処に希望を見いだせば良いのか。なすすべがない事を知り、無力を思い知りつつ、自分の内に、わずかに浮かび上がるものを探している。震災後、自殺者が減ったいうニュースは、深い意味を持つのではないか。

安全神話は、まざまざと崩れ去り、穏やかなはずの海が、一瞬にして全てを奪ってしまえるような世界に、自分は住んでいたのだった。世界は、こんなにも儚いものだった。きのう、公園を散歩して思った。この建物も、バスも、芝生も、砂も、花も、犬も、そして人も自分も、明日まだあるとは限らない。これからの人生は、そんな儚い世界の、生き残りとして、生きていかなければならないような気がしている。生き残った人間のすることとは? とは、とは。。。。

ああ結局は、今日を生きていることを、謳歌するより他にない。寝たり、起きたり、食べたり、笑ったり。もたらされた幸せに対しては、疑問を持たずに、ただ感謝できればいい。当たり前の毎日が、当たり前なんて言っちゃいけないくらいに、本当はどれほどありがたく、愛おしいものであるかということを、いつも思い抱きながら暮らすのだ。灯りが消えて、見えたものがあるはず。癒えない傷から、何かを学ばなければならない。これからだ。

儚い世界に桜が咲いた。

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