問いかけてみる

年末、年明けからいろんなことが起こった。悲しい出来事に続いて、身の回りもバタバタしていて、人と関わることが多くなり、さまざまな場面でいろんなことを考えされられた。
絵も文章も書けずに、ただ起こる出来事をかみしめて過ごしていた。
 身近な人とのやりとりでも、なんだかしっくりこないことがあると、そのたび「この出来事は私に何伝えようとしているのか?」ということを考える。これはもう私の癖のようになっていて、必ず自分に問いかけてみるのだけれど、答えがすぐに出る時と、いつまでたっても出ない時がある。それでも、少し自分から離れたところに立って、俯瞰で見るようなつもりになってみると、ぼんやりと次に向けてのいくつかの可能性が見えてくる。。。はっきりした答えじゃなくても、その可能性のうち一番いいものはどれかを見分けられれば、何をどうすればいいのかわかってくるのだった。

時間という可能性

前にも、こんなことを考えていたが、この頃また、その感覚を思い出すようになってきた。
自分の周りを無数の輪のようなものが取り囲んでいて、それが無限なくらいに、果てしなくある、というイメージだ。私はそれは、「可能性」というものなんではないかと思っている。言葉で表すのは難しいが、それは「時間」のようでもある。いわゆる「時空」というのに一番近いかも。。。
終わりの方に向かって伸びてゆく、まっすぐな時間という定規の上を歩いて、10センチ向こうに、何か目標を設定して、それに向かって、1センチずつ手を伸ばしながら、歩いているという、いわゆる直線的時間というのとは、性質の違う時間感覚なのだ。時間は自分の前と後ろだけに伸びているのではなく、もっと丸くて輪のようで、長さというものでは測れないもの。自分から、前後、左右、上下、に果てしなく充満している可能性のような輪がいくつもあって、そのどれを選ぶのかを、意識的にか無意識的にか、常にその時その時で見つけていく。進歩ではなく、変化なのだ。1センチ進むのではなく、1ミリ角度を変える。そうすると、そこにはまた別の宇宙が開けるのだ。。。そんなイメージ。可能性の軌道の中から、ひとつひとつ選んでいくように。。。
きっとダメだろうなと思う時、その中のダメゾーンを選んだことになり、ダメな世界がそこに開けて、ダメな道を行くことになる。だからそれに気がついた時、すぐに軌道修正すればいい。何かを信じるというのは、無限にある可能性の中のどれを選ぶかということの、ガイドなのかもしれないと思う。

ふつうで平凡

TVをつけていたら、映画が始まったので、そのままなんとなーく終わりまで観てしまった。
芸術家の母を持つ、娘の苦悩を描いた映画だった。
ホワイトオランダーというタイトルだった。
「あー私ってなんてまともなんだろう」って思った。
なんてノーマルなんだろう。 ノーマルって素晴らしいな。
保護者会にもちゃんと行くし、主婦業はちゃんとやっているつもりだ。
映画に出てくる芸術家でさえも、”生活”というのは必ずあるわけで、
何が、大事なのかを、考えさせられた気がする。
名声というのは、それほど大事なことではないんだなと思った。
芸術家ってアブノーマルな方が、ホンモノっぽい感じがするが、
私は、ノーマルな芸術家になりたいよ。
ノーマルでいるためには、けっこう意識的でいなければならない。
へんてこな自分の考えや、思いを表現するのは、作品の上でやればいいのです。
自分のアブノーマルな部分は、そこへ持っていけばいいんだし。
ふつうの生活、ふつうの人、”ふつう”とか”平凡”というのは、
それに気がついて、意識したときに、なんとも言えない、価値があるものだとわかる。
私の制作のベースは”ふつうで平凡”なのだ。
何が”ふつう”なのかは、人それぞれ違うんだけどね。。

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