スケッチのたどりついたところ

なんか、ひとつ、わかった気がする。とりとめのないスケッチをしていて、だんだんわかってきたことがある。何かを目指したり、どこかへ向かおうとして描いていると、すごくつまんない絵になる。自分で自分に無理なオーダーをしていて、なんかもうわかんなくなった。そこらへんのことスコーンとやめてみたら、なんだかスイスイ。あ、なんだ、そうか、そもそも頼まれもしないのに描いているんだから、いいんじゃないのか?って。目指すことも向かうこともせずに、無心で描いたものは、そのままでいいのかも。。。嫁入り作品が、それを物語っているんじゃないのかな、と。ちょうどRADWIMPSを聴いてたら、「叶えた夢の数を数えよう。叶わない夢は誰かがきっとどこかで・・・」って歌ってた。そうだなぁ。叶ったことって結構あるんじゃないのかなぁ、と。。。うまくいったスケッチを壁に貼って眺めてみる。

とりとめのないスケッチ

版画をやるようになってから、スケッチばっかり描いているのでスケッチブックの減りが早い。やっぱり月光荘のウス点ブックが描きやすいんだけど、もうなくなってしまい、8B鉛筆もどんどん小さくなるので、銀座に出かけついでに月光荘画材店へ。レジのそばに「四月と十月」の最新号が出ていたのでそれも買った。去年は「でんえん」で一冊買った。最新号は20号記念ということで巻頭はカラーになっていた。前にも書いたけど、作っているのは画家の牧野伊三夫さんで(夫の知り合い)絵とそれを描いた作家の言葉が並んでいる本なのだけれど、わたしはこの本の空気感がとても好きだ。美術雑誌にはない静かさと落ち着き。描く人がどんなことを考えているのかその一端を覗くことができるし、そうそう、わかるぅー、みたいになってなんかうれしいのだ。こういうの読んだり工房で作業したり、他の人の個性に刺激を受けると、自分はどうよ?ってなる。何度も何度もとりとめのないスケッチをしていてスタイルやら技法やらが気になり始め、気分があちこち散らかってしまって、自分自身の表現ってなんだろう?って思っている今日このごろ。なんだろう?どこに向かいたいんだろう?向かうところなんかなくてもいいんじゃないか、とかいろいろ。。。今はただ、とりとめのないスケッチの行く先だけをつかめればいいのかもしれないんだけど。。。

絵と言葉

おととい、お買い上げいただいた絵を届けに行き、カサカサの喉に冷たいビールが通って行くのを味わいながらしばしお話。わたしの絵を見ていると、詩とか言葉が浮かんでくるんだそうだ。ほー、そうなのかぁ、人のココロに何かを喚起するというのは素晴らしいことじゃないの!詩を書きたくなるなんて。彼女は前回のわたしの個展を見た時に、自分が思っていたことが絵になっているような気がして驚いたんだって。わぁー、ダイレクトに伝わったんだー。ってゆうか描く人と見る人に内的な共通項があると、ピピッとくるよね。うれしいなぁ。描き手としても感慨深いものがある。風邪も治っちゃうよ。

昔読んだカポーティの短編集を再読しているけどきのう電車の中で読んでいて、ナゾの画家の話があった。そこにはこんなくだりが。。。

「・・・興味をかき立てられるのは、見る側の人間がその種の作品の中にそれまでは自分にしかない、他人には説明できないものと思われていた特別な何かが描かれていることに気づくからである。・・・ぼくは一度も詩を書いたことのない詩人だ、絵を描いたことのない画家だ・・・」

順番に読んでた短編集なのに、なんかすごいタイミング!よーくわかります。自分でも誰かの作品を見て、ハッとすることは度々あるし、考えてはいてもやれなかったりやらなかったりすることって、いろいろある。彼女も詩とかなんでも書きたい言葉をどんどん書いちゃって書いちゃってー!って思う。ほんとにやりたいと思うこと、やりたいよねー、おたがいに。。。

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