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2/16自分に起こることは全部
分相応なことだと、東洋の賢者は言うらしい。
出来事は、内的な何かを説明している。
そう思って いろいろ見渡せば、なるほど
全てはメッセージなんだと、わかる気がする。
外界の出来事から、自分のもろもろのことを学べるのだ。
2/17最近、沢山本を読む。
そう、私はヒマなのだ。
雑用、その他いろいろあったにしても
他の忙しい人々に比べたら、はるかにヒマだ。
お気楽そうだよね。なんて言われたりもする。
忙しくてさあ、って言う人は沢山いるけど
ヒマでさあ、って言う人はあんまりいない。
ヒマって悪いことなんだろうか?
忙しくしていることが、いいことだと思っているのも、なんかヘンだ。
猫とか花とかは、みんなヒマである。
世の中の忙しい人の分を、誰かがどこかで
帳じりを合わせているのかもしれない。
みんながつながっているのなら、そうやって
宇宙が、バランスを保っているんじゃないだろうか?
そんなふうに思うことにした。
時間に左右されるのではなく、主観的に伸び縮みする
時間もあるというし、与えられた時間も財産なのだから
素晴らしいヒマな時を、大事に使おう。
2/18
問いを持たなければ、共時性もやってこないし
答えもないのだ。常に問うことで、それはやってくる。
「目標」ではなく「問い」なのだとわかった。
絵を描くにあたっての、自分の役割を問う。
印象派が、外界の光の追求をしたように
私は、内的な光を追求したいと思う。
それは、瞑想としての 絵画でありたいとも思う。
内側のドアを通って、外へ行くのだ。
2/19
素直になりたいと、思うとき、その人はもうすでに素直なんだな。
2/21ないものを探すんじゃなくて、あるものを見つければいいと思った。
2/23
東京国際フォーラムでやっている
「人体の不思議展」を見てきた。
カッチリと 物体になった肉体を見て、人間というのは
基本的には、健康にできているんだなあ ということがわかる。
肉体は、システムなんだというのもわかった。
シェルドレイクの仮説の「場」の理論を
なんとなく知ってはいたものの、実感するところまでは
いっていなかったのだけれど
新たに 本を読んだ後に、その人体の展示を
見たものだから、なんだか
妙に納得してしまった。
実際の重さだという、脳をこの手で持ってみて
この、サンプルになった脳の持ち主の
記憶や心はどこにあるんだろうと、考えてしまった。
置き去りになった 脳は、私の手の上に乗っかっている。
だからといって、その人の記憶や心までもコチコチになって
私の手に乗っかっているわけではない。
それらは、どこへ行ったのだろう。消えてなくなったのだろうか?
私には やっぱり、そういうものがある「場」というものが
どこかにあるように思えてしかたがないのだ。
私たちはそういう「場」みたいなところから
肉体というシステムを使って
何かを、たえず受信しながら 生きているのかもしれない。
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