のスナップ

2004年1月2月

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予想もしなかった出来事だ。命がこんなにもはかないなんて。

2/6

言葉がすっかり止んでしまい

日常の出来事をただただ過ごしていくだけだ。

年明けから、身の回りで色々なことが起こり

そういう事実をひたすら受け止めなければならず

気持ちばかりが忙しく

実際にはこれといって何もしないような日々だった。

人の死は、生きることの何たるかを 突きつけられることでもあり

生きているというのが、当たり前のことではないと思ったら

周りのものや、事が 何だか

今までとは違ったものに見えてきたりもするのだ。

2/8

表現のしすぎというのは、たしかにコワイ。

言葉にした途端、それに囚われていく感じだ。

実感したことをどう言葉にしたらいいのか 悩むところだ。

いつか来るであるだろうという その日のために

いつかそのようになるために と思って今を生きるより

今そのものを、生きなければ

明日なんてもしかしたら無いかもしれない。

明日がないかもしれないからといって

明日の分のご飯はさすがに食べれないし

脱いでもいないものを洗濯することもできない。

明日の分を生きることはできないのだ。

2/10

明日の分を生きることはできず

昨日は、もう記憶になってしまった。

やっぱりポイントは「今」なんだけれど

実感がもてなくて、禅についての本を読んだら

妄想を捨て、只今を生きるべし

みないなことが書いてある。やっぱりそうか。

今を犠牲にするのは時間の殺生だという

そう思うと、今まで考えてきた「夢」とか

「目標」ということの意味が変わってきてしまうと思った。

いつかそうなるために、その日のためにある

と思って我慢している「今」が、時間の殺生だというならば、

未来に向けての夢や目標は、一体どうしたらいいんだろう。

言われて理屈がわかっても、実感ができなければどうにもならない。

そろそろ絵を描かなければ という思いにも駆られたので

白地を前にして少し考えてみた。

しばらくして

不思議な感覚がやってきた。

全部ここに在るのだという。

ここ というのは場所と時間が一緒の 何というか上手く言えないけれど

存在そのもののような、「ここ」であって

知覚できる場としてはこの身体だ。この身体の中に全てがあった。

色、形、過去。未来という名の 夢や目標。

とにかく全ての可能性がこの中にあることを 実感というより、体感した。

そのとき、身体という自分の領域が強く意識された。

身体の中に何かがみなぎってくる。

あらゆるものがここにあるじゃないかと言われているような。

そこで、じゃあ 今ってなんだ?と聞いてみる。

すぐさま答えのイメージが。

今というのは過去と未来が集まっているところのようだ。

今とは時間ではなく、この存在そのもの、この可能性のことだ。

過去と未来が吸い寄せられて一点になったところ

それが「今」だと。そういう図式のイメージが、

ぐわーんと沸いて、驚いてしまった。

理想も何もかも考えうることは全てここにある。

それを可能性というのだな。

この手の中や足の先まで、びっしりと隙間なく、しまってある。

めいいっぱいしまってあるのだった。あまりにも隙間がないから

空っぽのようにも見えてしまうのだ。

それに気がついて、ぽかぽかしてきて

与えられて 生かされている 今 という場を想う。

そうとしか言いようがなくて 言葉とはこういう時 不便なものだな。

2/26

そんな体験があってから、ようやく筆を手にして

度々、今ということを想う。

未来や 夢のために 今を我慢するのではなくて

夢や未来は自分の中に可能性としてすでにあるのだから

安心して今を生きてゆけばいいんだ。

夢と共にある今、目標や理想と共にある 今 というものを。 

それは妄想ではなく自分の中にある事実。

未来と現在に隔たりはない。

それはセットになって 初めて今というものが成り立っている。

意識してもしなくても、そうなっているんだろうなと

妙に確信を持ってしまった。

白地が少しずつ色になってゆく。

筆先から未来がすべり出て、たちまち過去になってゆく。

その感覚を味わうことしか自分には為すすべがないな

なんて想ったりもするのだった。

[BacK]